創業までのストーリー&想い (2015年1-2月)

【43歳で会社を辞めて海外に出た。】

サービス業はどれもそうだが、教育ビジネスも、とても人に依存する部分が大きい。
英語コンシェルジュに関心を持ってくださる方も徐々に増えてきて、僕自身についても若干紹介をさせてもらおうと思う。

【 3年前、会社に留学の意向を伝えた。 】

 僕は大学を卒業後に入社した会社に約20年勤めた。 元来、保守的な人間なんです。
政治や社会について話すとき、”価値は保守、手法は革新”となることが多い。

そして、僕は優秀なタイプでもない。会社でもっと優秀な人を一杯見てきた。
僕より年下で尊敬できる後輩、魅力あふれる多くの後輩とも出会った。
ぼくが勤めていた会社はマーケティング関連の会社で、普通の人は知らない。
だけれど、メーカーのマーケティング担当は誰もが知っている、”知る人ぞ知る会社”だった。
その会社はとても順調に成長し、未上場から二部上場、そして一部上場。
世界ランキングカンパニーへと順調に成長した。

仕事内容がとても意義もあるし最高に楽しい仕事だった。
会社もとても恵まれていて誠実だけどチャンレジ精神のある素晴らしい会社だった。
お客様も超一流だし、僕たちのサービスも誇りをもてるものだった。
そして何よりも魅力的な人が一杯いる会社だと思っているので、正直できれば辞めたくなかった。
退職挨拶の際は、本当に涙がボロボロでて止まらなかった。

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【 SVP東京と出会い、新たな世界が広がるエキサイティングな40代 】

40歳を前に結婚、子どもが生まれた。 人生で何が大切か?考えた。
社会人になるときに自分に誓ったことを思い出した。

『お金も稼いで幸せに結婚してマーケティングのプロになって、共感を広げる力をつけてから、NPOの業界に戻る』。
その時期に来ている。
やるべきことが分かったら、行動すればよい。

すぐ会社を辞めるのは現実的ではない。「プロボノ」という方法もあるようだ。
調べたら、ソーシャルベンチャーという言葉が流行りだしていてどこかで見たことのある人の名前。

井上英之さん。僕の大学時代のインカレ活動の後輩だった。
彼は日本のソーシャルベンチャーの第一人者になっていた。
 尊敬の念。そして、「僕にはできなかったのか!?」という悔しい思い。
  「社会に良いことが事業となり得る」
「そういう社会は作れるし、そういう活動をしている個人も幸せになれる」と学生時代に欧州で確認した。
でも、それを実現するまで長い時間がかかる。
それまでは、NPO業界で働くとしたら貧しいことを覚悟しないとならない。
僕は体育会系でもタフでもなかったので、違う道を選んだ。『プロになってから、いつか業界に戻ってくる』と。
当然、「会社で必死に頑張ってきた」という自負が僕にはある。

井上さんが設立したSVP東京という団体に入ることにした。
SVP東京は本当に(良い意味で)”最高にクレイジー”な団体だ。
名だたる日本のソーシャルベンチャー(例えば病児保育のフローレンス)がSVP東京との協働を経験、生態系をつくってきた。
これも”知る人ぞ知る”団体。 ある人は”究極のおせっかい集団”と呼ぶ。
SVP東京を通じ本当に多くのことを体感して-今も学んでいる-。
僕はずっと「考えて分析する」仕事をしてきた。
そんな僕にとって『左脳と右脳のバランス』、『人を動かすのは感情だよね』という
当たり前の真実に立ち返ったことが大きかった。
僕が少しは貢献できたことがあったかもしれないが、迷惑をかけたこともあるし、未熟さを学んだ。

『頭の声だけでなく心や身体の声を聞く大切さ』。 このことが僕自身の行動にも変化を及ぼすことになる。

大企業の一会社員として生きてきた僕の内面に大きな変化が起こっていた。
SVP東京の一環、NPO法人発達わんぱく会(発達障がい児の療育事業)との協働には何百時間も時間を使った
-しかも自分がお金払って-。

『自分がお金を払いつつ、しかも自分のスキルを駆使して、その事業が発展するために何百時間も行動をする』
もう、これって恋愛っていうか愛情。
 リスクテイカーの起業家の方とは全く比べられないが、それにしても、僕たちの熱意は相手にも伝わる。

尊敬する起業家の方と一緒に汗をかいて3年で200倍の成長・社会への価値の提供を実現することができた。

僕の心の中にあった熱い思いは、自分の行動を通じて少しずつ大きくなっていた。

 止められない猛烈な気持ち

 強い思いをもって友と一緒に行動する喜び、感動。

 そして、自信、希望、自分もチャレンジしたいという気持ち。

   ・・・・・後編へ

後編

【 全てが満たされているけれど、希望だけがない日本。 】

2011年、震災が起こった。 
妻のお腹には二人目の子どもがいた。
原発事故がどうなるかも心配。お腹の中の子どもは元気に生まれてきてほしい、絶対に。
政府発表は信じられない。

僕は震災後、絶望を感じた。
原発事故という出来事ではなくて、多くの日本人の感覚、考え、態度に。
例えば、「人口減少」が昨今キーワードになっているけれど、これって最近分かった問題なの?
『人口減少がスタートしたのは2005年だから最近のことです』だって!!??

バカじゃないの? (失礼)
1974年以降ずぅーーーーーと、出生率が人口を維持できる2を下回ってるんだよ。
40年前だよ。ずっと前から分かってんの。
環境問題、豊かさ、男女平等、政治など多くの社会問題は70年代に指摘されている。だけど、ずっーーーと解決されてないの。

『ずーーーと分かってたけど、真剣に対応してこなかった。』それだけでしょ。
まさにゆでガエル・日本。

そして、分かりやすいのが原発事故。
「原子力緊急事態宣言が発令される」
「首相がヘリで原発を訪れる、で、その原発が爆発。」

ハリウッド映画でも「そりゃリアリティないでしょ」的な状態;笑

それでも
『原発を止められない社会』を止めることができない。
 
豊かで素晴らしい国だっていうのはもちろんよくわかっている。

でも、それゆえに
『変えることができない』、それが日本の姿。

『変えることができない社会』で、子どもたちは希望をもって自分の人生を作ってゆく人間に育つのだろうか?
可愛い二人の子どもを目の前にして『彼女たちに何ができるのか?』


【 20年という歳月を超えて偶然が起こる。いや必然なのか。 】

諦めているだけでは何も変わらない。やはり何か行動することだ。
まずは何か行動をしてみればよい。

新聞で知った、原発都民投票という活動。
「原発再稼働について、東電の大株主である東京都の主権者である都民ひとりひとりが、この問題に真剣に向かい合い、投票を行う」
「”自分達の未来は自分達で決める”ため、民主主義を自分たちの手に取り戻すための活動」だった。
 その活動を知って応援しようと、仕事帰りに事務所をアポなしで訪れた。
自己紹介して、寄付金を渡したり、先方の話を聞いたり、、、、、。何か見たことがあるような顔。

中心メンバーの一人が、なんとSVP東京の井上さんと同じく、僕の大学生時代をささげたインカレ活動の後輩だった!!
SVP東京にしろ、この活動にせよ、20年という年月を超えて友との偶然の再会。

セレンディピティ。大好きな言葉です。
自分が強く思い日々行動をすれば、その到達したい方向に近づき感性が選び取って、”偶然?”と思える状況も創り出してしまう。

学生時代は色々と活動をして、そういう実感があったけれど、会社人間になってからはそういう”ダイナミックに自分が動くことで流れをつくってゆく”感覚を忘れていた。
僕の勤めた会社が”あまりにも素晴らしすぎて、成長、安定、地位の全てを自分の好きな仕事で得られちゃった”から守りにはいっちゃたのね。

会社で出会う、もっと優秀な人たちはまさに仕事の中で、これを今日も実践していると思う。尊敬します。
ソーシャルベンチャー(子会社出向)の頃はそういう感覚があった。 でも、それ以降は「みんなについていくのでただ必死」というか.....。


「やってみたいことを全力でやってみる」
そうい自分に変わること、その姿を通じて、子どもたちは大事なことをつかみ取ってくれるのではないか?


『変わるのは自分』....か。

【 脱・日本。  そして 脱・会社。 】

英語はある程度できたから、働きながら、そしていろんな活動をしながらでも、
自分で勉強をすればなんとか海外に留学できるレベルには到達するはず。
TOEICを3カ月で100点伸ばした経験があるから本気でやれば、なんとかなるだろう。

アメリカ転勤になる身近な友達もいるし、海外に住む親せきも何人もいる。

”国境を超えることは普通”のことなんだ。

とにかく『海外でも生きていける人間に僕がなる。そして、子どもたちに海外生活を体験してほしい。』
そういう結論が出たら、それを具体的なプランに落とし込むだけ。

悩むのは「どうやるか?どういう選択肢があるか?合理的な方法」だ。
「行くか?行かないか?」では悩む必要はない。「どうすればよいか?」にフォーカスした。

具体的にはJICAのシニア青年協力隊の応募もした。 でも、僕のキャリアと専門性がマッチするものはなかった。
となると、海外留学。

自分で好きなことをやる、起業を考えると、僕にはまだまだ知らないことが一杯。マーケティングには強いとしても、ぶっちゃけ経営の素人。
知らないことが多すぎる。できないことが多すぎる.....。留学、確かに考えてなかったけど僕に必要だ。
大学院の留学なら、家族も付帯ビザがもらえて一緒に滞在できる。


【 マレーシアで起業家マスターコースに通って学びつつ、起業しよう! 】

お金を考えなければ、欧米などの先進諸国、そしてオーストラリアも憧れてしまう。
でも、安くないとやってられない。

そして、時代はアジア、絶対にアジアです。
家族もいるから治安も考える必要がある。

調べたら、確信をもって選ぶことができた。

『多民族国家マレーシア』
アジアのハブ・最先端国家シンガポールの隣。
中進国レベルに発展し、治安もよく移住者も急増中。
中華系とインド系それぞれと共存するマレーシア。
高等教育は英語。かつては英国統治。
しかも、ルックイースト政策で親日国。
 学費なんか当然欧米よりめちゃくちゃ安い。
 もう、これしかないっ!!!僕を呼んでいる気がしたよ;笑

なんとか英語もがんばって、様々な書類とかも準備したり.....して
マレーシアのビジネス大学院(起業家マスターコース)に通いつつ、現在に至ってます。

1年半のマスターコースはほぼ終わりに近づき、今最終のビジネスプランを書きながら、英語コンシェルジュをスタートアップする毎日。

【 海外に出た。それから.... 】

2歳と4歳の子どもと妻を連れて海外に飛び出た僕。
『僕は変わりました』よ。

なんて言ってもマレーシア在住ですからね;笑
性格が短気になったため、妻にはストレスをかけていて申し訳ないとも思っています;泣

今年マスターコースが終了し、ビザも切れます。
英語コンシェルジュを立ち上げ、日本人相手の教育事業を展開することになった。
だから、今年中には日本に帰国します(多分)。

『なんだ2年で日本に戻るんだったら、意味ないじゃん??』そうかもね。
 でも、マレーシアでの日々があったからこその今の僕。

 後悔はしていません。

 この2年、日本の仲間たちの方が楽しく豊かな日々を送っていたかもしれない。僕の2年はストレスも相当だし大変な日々だった。
だけど、その分、どの仲間よりも『変わった』自負がある。


最後に:
 2011年の震災の時に妻のお腹の中にいた次女。無事に生まれました。
 次女に僕がつけた名前は「こころ」。

 その想いは「この国はますます希望が持ちにくい国になってゆくだろう。普通に生きていては、希望をもつことが難しい時代になるだろう。
 でも、明るい未来を想像でき、チャレンジ精神を持った人間になってほしい。試みることを忘れないでほしい。」
 こころみる ことを忘れないでほしい そう願って名前をつけました。


 胸を張って、日本に帰ろう 家族と一緒に。 こころみる気持ちと一緒に。



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愛すべき多民族国家 マレーシア
Mutiara Damansaraのコンドミニアムにて。

(2015年1-2月フェイスブックページ掲載内容;一部改定)