【43歳で会社を辞めて海外に出た。】
サービス業はどれもそうだが、教育ビジネスも、とても人に依存する部分が大きい。
英語コンシェルジュに関心を持ってくださる方も徐々に増えてきて、僕自身についても若干紹介をさせてもらおうと思う。
【 3年前、会社に留学の意向を伝えた。 】
僕は大学を卒業後に入社した会社に約20年勤めた。 元来、保守的な人間なんです。
政治や社会について話すとき、”価値は保守、手法は革新”となることが多い。
そして、僕は優秀なタイプでもない。会社でもっと優秀な人を一杯見てきた。
僕より年下で尊敬できる後輩、魅力あふれる多くの後輩とも出会った。
ぼくが勤めていた会社はマーケティング関連の会社で、普通の人は知らない。
だけれど、メーカーのマーケティング担当は誰もが知っている、”知る人ぞ知る会社”だった。
その会社はとても順調に成長し、未上場から二部上場、そして一部上場。
世界ランキングカンパニーへと順調に成長した。
仕事内容がとても意義もあるし最高に楽しい仕事だった。
会社もとても恵まれていて誠実だけどチャンレジ精神のある素晴らしい会社だった。
お客様も超一流だし、僕たちのサービスも誇りをもてるものだった。
そして何よりも魅力的な人が一杯いる会社だと思っているので、正直できれば辞めたくなかった。
退職挨拶の際は、本当に涙がボロボロでて止まらなかった。
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【 SVP東京と出会い、新たな世界が広がるエキサイティングな40代 】
40歳を前に結婚、子どもが生まれた。 人生で何が大切か?考えた。
社会人になるときに自分に誓ったことを思い出した。
『お金も稼いで幸せに結婚してマーケティングのプロになって、共感を広げる力をつけてから、NPOの業界に戻る』。
その時期に来ている。
やるべきことが分かったら、行動すればよい。
すぐ会社を辞めるのは現実的ではない。「プロボノ」という方法もあるようだ。
調べたら、ソーシャルベンチャーという言葉が流行りだしていてどこかで見たことのある人の名前。
井上英之さん。僕の大学時代のインカレ活動の後輩だった。
彼は日本のソーシャルベンチャーの第一人者になっていた。
尊敬の念。そして、「僕にはできなかったのか!?」という悔しい思い。
「社会に良いことが事業となり得る」
「そういう社会は作れるし、そういう活動をしている個人も幸せになれる」と学生時代に欧州で確認した。
でも、それを実現するまで長い時間がかかる。
それまでは、NPO業界で働くとしたら貧しいことを覚悟しないとならない。
僕は体育会系でもタフでもなかったので、違う道を選んだ。『プロになってから、いつか業界に戻ってくる』と。
当然、「会社で必死に頑張ってきた」という自負が僕にはある。
井上さんが設立したSVP東京という団体に入ることにした。
SVP東京は本当に(良い意味で)”最高にクレイジー”な団体だ。
名だたる日本のソーシャルベンチャー(例えば病児保育のフローレンス)がSVP東京との協働を経験、生態系をつくってきた。
これも”知る人ぞ知る”団体。 ある人は”究極のおせっかい集団”と呼ぶ。
SVP東京を通じ本当に多くのことを体感して-今も学んでいる-。
僕はずっと「考えて分析する」仕事をしてきた。
そんな僕にとって『左脳と右脳のバランス』、『人を動かすのは感情だよね』という
当たり前の真実に立ち返ったことが大きかった。
僕が少しは貢献できたことがあったかもしれないが、迷惑をかけたこともあるし、未熟さを学んだ。
『頭の声だけでなく心や身体の声を聞く大切さ』。 このことが僕自身の行動にも変化を及ぼすことになる。
大企業の一会社員として生きてきた僕の内面に大きな変化が起こっていた。
SVP東京の一環、NPO法人発達わんぱく会(発達障がい児の療育事業)との協働には何百時間も時間を使った
-しかも自分がお金払って-。
『自分がお金を払いつつ、しかも自分のスキルを駆使して、その事業が発展するために何百時間も行動をする』
もう、これって恋愛っていうか愛情。
リスクテイカーの起業家の方とは全く比べられないが、それにしても、僕たちの熱意は相手にも伝わる。
尊敬する起業家の方と一緒に汗をかいて3年で200倍の成長・社会への価値の提供を実現することができた。
僕の心の中にあった熱い思いは、自分の行動を通じて少しずつ大きくなっていた。
止められない猛烈な気持ち
強い思いをもって友と一緒に行動する喜び、感動。
そして、自信、希望、自分もチャレンジしたいという気持ち。
・・・・・後編へ